EURO 2020
サーッカー欧州選手権
1)開催年の変更
2021年6月11日(金)、サッカー欧州選手権が開幕した。本来ならば、2020年6~7月に開催されるはずであったが、新型コロナウィルス感染症の影響を受け、1年、延期されることになった。なお、”EURO 2020” という大会名は、実際の開催年とは異なるが、変更されていない。
2)出場国
出場するのは、予選リーグやプレーオフを勝ち抜いた24ヶ国(下表参照)。つまり、ヨーロッパ諸国の約半数である。ただし、この数字には、サッカー発祥国として特別な扱いを受けているイギリスの三つの地域、つまり、イングランド、スコットランド、ウェールズが含まれている(欧州サッカー連盟 UEFA に加盟している54の国と地域はこちら)。
グループA ・イタリア ・スイス ・ウェールズ ・トルコ グループB ・ベルギー ・フィンランド ・デンマーク ・ロシア グループC ・オーストリア ・オランダ ・ウクライナ ・北マケドニア |
グループD ・チェコ ・イングランド ・クロアチア ・スコットランド グループE ・スロバキア ・スウェーデン ・スペイン ・ポーランド グループF ・フランス ・ドイツ ・ハンガリー ・ポルトガル |
3)開催国・都市
総数51の試合は実に10という多くの国で行われる(参照)。これには、開催60周年にあたる本大会を真にヨーロッパのイベントにするといった意図が込められており、2012年に企画された。そのため、新型コロナウィルス感染症とは関わりがない。なお、当初は、アイルランド(ダブリン)も開催国に含まれていたが、観客への感染予防が十分に行えないとの理由に基づき除かれ、開催国は、前述したように、10となった(参照)。
- ※ ベルギーのグリムベルゲン(Grimbergen)も開催地に選出されていたが、競技場の完成が遅れたため、イギリス(イングランド)のロンドンに変更された。
開催地(人口順)
・ロンドン 879万人・サンクトペテルブルク 488万人
・ローマ 287万人
・バクー 218万人
・ブカレスト 188万人
・ブタペスト 174万人
・ミュンヘン 146万人
・アムステルダム 85万人
・セルビア 68万人
・グラスゴー 62万人
・コペンハーゲン 61万人
(参考)FUSSBALL-WM.PRO
どの都市のどのスタジアムで試合を行うかは、開催国によって決定される。当初、スペインは、ビルバオ(バスク州)を開催地に指定していたが、感染予防を効果的に行うため、セビリア(アンダルシア州)に変更した。
4)決勝戦
決勝戦は、7月11日(日)、「サーッカーの聖地」と称されるロンドンのウェンブリー・スタジアムで行われる。なお、同スタジアムは、EURO 2020の試合が行われる11スタジアムの中で最も規模が大きく、9万人の観客を収容することができる。これが決勝戦の会場となった理由であるが、同スタジアムでは、決勝戦の他に、準決勝を含めた6試合、行わる。
開催国アゼルバイジャン
前述したように、本大会は10ヶ国・11都市で開催されるが、アゼルバイジャンがそれに含まれていることに対する批判は強い。それは以下の理由による。1)非民主主義国としてのアゼルバイジャン
コーカサス山脈は、ヨーロッパとアジアの境を決める基準の一つとなっているが、アゼルバイジャンの領土の大半はその南方にある。そのため、この基準によるならば、アゼルバイジャンはヨーロッパに属さない。なお、トルコについても、ヨーロッパへの帰属性が問われているが、アゼルバイジャンはトルコよりもさらに東方、つまり、アジア寄りにある。
しかし、外務省の公式サイトで、アゼルバイジャンはヨーロッパに分類されているように、一般に、同国はヨーロッパに属すると捉えられている(参照)。このような立場に従うにせよ、その首都バクーはカスピ海に面しているため、ヨーロッパの都市として捉えるべきではない。このアジアの地で欧州選手権が開催されるのは、アゼルバイジャン政府による主催者(欧州サッカー連盟 UEFA)への働きかけの成果に他ならない。なお、UEFAは、2018-2019年のヨーロッパリーグ決勝戦(チェルシーFC対アーセナルFC)も、バクーで開催している。
サッカーよりも、F1招致の方がよく知られているが、これらの国際イベントの開催を推進しているのは、アゼルバイジャンのイルハム・アリエフ大統領である。彼は、2003年10月、病気で引退した父親の跡を継ぐ形で大統領になると、15年以上が経過した現在でも大統領を務めている。確かに、初就任時も、大統領選挙で勝利を収めているが、父親と交代した人事は世襲制として批判されている。また、4期にも及ぶ長期政権は、3選を禁止する憲法の規定を削除し、実現させたものである。
なお、2016年9月、アリエフ大統領は憲法を改正して副大統領のポストを創設すると、妻を任命している。
近年、民主主義、法の支配、人権保護をヨーロッパの基本的価値として捉える傾向はますます強まっており、アリエフ大統領の政策運営は批判されている。しかし、それ以上に批判されているのは、アゼルバイジャンを開催国の一つに選んだUEFAである(参照)。
なお、1936年、アゼルバイジャンは、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国としてソ連に加盟したが、冷戦終結後の1991年2月、国名を現在のアゼルバイジャン共和国に変更している。そして、同年12月にソ連が解体されると、独立国家となった。現在は、旧ソ連構成国の多くで設けられた独立国家共同体(CIS)に加盟しており、ヨーロッパ諸国から非民主的・非人権保護政策が批判されているロシアのプーチン政権とも近い関係にある。
2)アルメニアとの武力衝突
アゼルバイジャン南部のナゴルノ・カラバフ地方(現在は、アゼルバイジャンの自治州)には、多数のアルメニア人が住んでいるが、少数のアゼルバイジャン人が実権を握っており、1923年、スターリンは、この地域をアゼルバイジャンに編入させた。
なお、アゼルバイジャン人の大半はイスラム教徒であるのに対し、アルメニア人の大半はキリスト教徒である。
1980年代に入ると、民族対立が深まり、ナゴルノ・カラバフのアルメニア人は、アルメニアへの帰属変更を求めたが、これを認めないアゼルバイジャン政府との間で軍事衝突が起きた。
また、旧ソ連解体後の1992年、ナゴルノ・カラバフ自治州は、ナゴルノ・カラバフ共和国として独立を宣言したが、アゼルバイジャンによって認められず、隣国アルメニアが加担する内戦に発展した。1994年、ロシアの調停により、アゼルバイジャンとアルメニアは全面停戦で合意したが、その後も和平協定が締結されることはなかった。その結果、ナゴルノ・カラバフの帰属問題が解決されることはなかったが、1994年の停戦以降は、アルメニアが実効的に支配してきた(参照)。
このような状況下、2020年9月、対立が再燃し、戦闘が約6週間、継続した。アゼルバイジャンは、ナゴルノ・カラバフを広い範囲で制圧すると、同年11月、再びロシアの調停に応じ、戦闘を停止した(参照)。同年10月、プーチン大統領は、この戦いにより全体で5,000人が命を落としたと述べている(参照)。なお、地域の帰属問題は、やはり未解決のまま残された。
このように武力行使をも辞さないアゼルバイジャン政府にヨーロッパ諸国は批判の目を向けている(参照)。